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非常時はトップダウンでいいんです。調整型ではダメなんです

仙台市高砂市民センター館長
浅見健一さん(64)


浅見健一氏


 「いや実は、これからもう一件立ち寄らなければいけない場所があるんです。あっ、ちょっと待ってください!」

 仙台市宮城野区の仮設住宅で先日開かれた「復興まつり」。盛大な祭りの進行具合を、会場の袖で裏方の一人として確認していた浅見健一さんは、次々に挨拶に訪れる地区民の対応にも追われ、そのつかの間、携帯電話が鳴り響く。

 とにかく、忙しい。

 でも、どんなに忙しくても、声を掛けてきた人たちをぞんざいに扱うことは決してない。わずかの間だが、浅見さんの傍らにいてはっきりとそれに気付いた。

 物腰の低い、どちらかといえば一見目立たぬ人の良さそうな“おじさん”の風貌をした浅見さんは、実は“伝説の人”でもある。仕事場である同区高砂地区とその周辺にある仮設住宅の自治会や町内会の役員、住民たちはこう口をそろえる。

 「館長にはとにかく助けられた。あの人がいなかったらどうなったか.....。感謝しきれないほどに感謝している」

 東日本大震災発生の3月11日。仙台市の指定管理者「仙台ひと・まち交流財団」が管理する高砂市民センターには、助けを求める多数の住民たちでごった返した。正式な指定避難所ではなかったが、緊急事態に、浅見さんは独断で職員たちにこう指示した。

 「避難してきた人はどんな人でも受け入れなさい。絶対、拒否してはいけません!」

 震災を想定して備蓄があったわけではない。440人収容の施設には、震災直後で700人ほどが避難して来た。寒さをしのぐためカーテンや暗幕、紅白幕を使い、浅見さん自ら、考えうる限りの周辺のスーパーなどに食料提供を求めた。同時に、区役所にも支援、応援を求めたが、指定避難所でないことが理由でけんもほろろに断られた。

 「区役所には、3度掛け合いましたが、全く聞く耳をもっていただけませんでした。そこで、私は啖呵切って言いました。『今後一切、行政の支援は受けない』と」

 杓子定規に事を運んだ行政とのやり取りの一部始終を、避難者全員に説明した浅見さんは、こう宣言したという。

 「行政の支援を受けることはできませんが、私の命に代えてもみなさんをお守りいたします」

 その後2週間、浅見さんは自宅に一度も帰ることなく、“避難所”運営の陣頭指揮を執り、強いリーダーシップを発揮した。高砂市民センターの孤軍奮闘ぶりはネットの時代、すぐに各地に知れ渡り、周辺の企業や住民のみならず、有力政治家や全国各地の善意ある人たちから次々と救援物資が届くようになり、同センターは早い段階で、県外を含む他地域の避難所に物資を支援する立場になった。6月30日現在でその数50ヵ所以上、という。避難所が避難所を支援するという珍しい支援体制を形作った。市民センターには、震災翌日の3月12日夕方には避難者が1000人以上に膨れ上がり、ピークの15日には1227人を数えた。

 2008年4月に館長となった浅見さんは、警防課長まで務めた仙台市の元消防職員。約30年間、常に緊急事態を想定した行動を取ってきた職業人で、震災前から、地区の防災体制強化の取り組みに力を入れていた。歴史的大震災にも慌てふためくことなく瞬時の判断で現場を取り仕切り、的確な指示を出しながら必要な行動を取った。

 本人は、「いやいや、私は勝手に指示を出して突っ走ってきただけで、地区住民や職員スタッフのみなさんに支えられてきました」と謙遜するが、震災当日からずっと傍らで働いてきた職員の一人、赤崎利恵さんは「ここを(避難所として)運営できたのは、館長だからできたこと。動物的勘というか。熱い思いと行動力がすべて」と話す。結果的に、高砂市民センターは6月28日まで110日間、避難所として運営された。

 避難所が閉所された以降も、同センターは仮設住宅に暮らす被災者の方々への支援の手を決して緩めてはいない。支援物資の提供はもちろん、温泉旅行や各種イベントの企画や「生きる力」を磨くための学習講座の開講、自治組織の手助け、各種相談などを継続的に行っている。その先頭に、常に浅見さんがいる。

 「中途半端が嫌なんですね。使命感ももちろんあります。それに、徹底的にやらないと気が済まないんです。手助けすると決めたからには、避難所が終わったからといって手を引くわけにはいかない。少なくとも仮設住宅がなくなるまではいろんな方面で支援していく考えです。館長としても、浅見個人としても」

 今年の3月末、浅見さんは退職する予定だった。非常時対応でその期限が来春までの1年間延長となった。それでも、「1年では足りない。これからという時、館長にいなくなられては困るんだ」という声が、仮設住宅自治会や地区町内会の役員、議員たちから出ており、退職時期の再延長を求める動きすらある。

 浅見さんの名刺の裏には、こんな文章が印刷されている。

 -私たちは、よりよい地域づくり・生涯学習教育・子育て・震災の被災者を支援しています。さらに地域の課題や様々な問題を講座として取り上げ、地域の安全や安心のために職員一丸となって全力で取組んでおります。ご意見やご要望は、館長の浅見まで-。

 日ごろからの細かな目配りと気配り、そして配慮。そうした下地があってこそ、大震災という超緊急時に、行動力と統率力が効果的に発揮されたのだろう。


「こんな応援を求めています」

 被災者のみなさんに対する支援物資はほぼそろいました。でも、一律に行き届いているかといえばそうでもありません。物資はともかく、職を失ってお金に困っている人たちが少なからずいます。これからの季節、暖房器具とか灯油を買うにしてもそれなりの資金が必要です。我々が支援している高砂地区の6ヵ所の仮設住宅には、49の町内会から成る高砂地区連合町内会が義援金を受け付け、必要な被災者の方々に配分しています。この町内会への資金援助をしていただくとたいへん助かります。(浅見さん談)


 連絡先は、仙台市高砂市民センター

 電  話022(258)1010

取材・執筆者:河北新報社ネット事業部・相原研也
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『海と風と町と』

みやぎの思い出写真集制作委員会事務局 矢吹浩二さん(46)

IMG_6036.jpg


東日本大震災以前の宮城県沿岸部の風景写真などを集めた「みやぎの思い出写真集『海と風と町と』」を作った。

20センチ角、オールカラー122ページ。収めた写真は、被災前の海辺の風景や街並み、祭りなど330点に上り、今となっては懐かしい往時の姿を静かに伝えている。

本業は仙台市青葉区にある広告代理店のプランナー。震災後、広告業に生きるものとして被災地にどんな支援ができるか、思い悩む日々が続いた。そんな時、同僚の一言にハッとした。

「被災者の中には痛々しい故郷の写真を見る気になれない人もいる。むしろ、被災前の元気な町の姿を見たいのではないか」

当時は、津波被害の大きさを伝える報道写真集の出版が相次いでいた。ひらめきを得て5月中旬、すぐにつながりのある宮城県内の印刷会社などに声を掛けて4社で写真集制作委員会を結成。宮城県や沿岸15市町にも協力を依頼し、観光PR用写真などの提供を受けたが、津波で失われた自治体もあり収集は難航した。

新聞やテレビ、ラジオなどの報道のほか、インターネットも使って、一般にも広く写真の提供を呼びかけた。

「もう見ることのできない美しかったあの頃の情景を、1枚でも多く収めたい」

願いは、被災地の人々の心にもじんわり浸透。結果、北は岩手県境の気仙沼市から南は福島県境の山元町まで、計3195点の写真が寄せられた。

制作委員会は、特定の地域や撮影者に偏らないように配慮しながら330点を厳選。しかも提供してくれた人の写真は1人1点は必ず載るように、サイズの大小を工夫して収めた。

そうして10月、写真集が完成。印刷した5万部のうち3万2000部超は各自治体やボランティアなどの協力を得て、仮設住宅入居者を中心に津波被災者への無償配布を始めた。

発行費用約550万円のうち約440万円は、企業23社と個人1280口の協賛で工面。
約9000部は協賛者に御礼として提供する。

残る約1万部は宮城県内の主な書店やコンビニエンスストア「ローソン」で、1部525円で販売する。発行コストの不足を穴埋めしつつ、収益が出れば全額、宮城県を通じて復興支援に役立ててもらう計画で、完売すれば約200万円の寄付につながる計算だ。

「自分の写真で、人の気持ちを癒すことができたらという人々の思いで、完成までこぎつけた。集まった写真は本当に今となっては貴重なものばかり。協力してくれた方々には、心から感謝したい」と語る。

その一方、胸には小さな疑問もある。
「この写真集は本当に被災した人たちに喜ばれるのだろうか」

衣食住に必要な物資を届けたり、がれきの撤去を手伝ったりする直接的な支援とは違うだけに、もどかしさがないわけではない。載せられなかった写真も多く、いつかは同趣旨の写真集をもっと細かいエリアで発行できないかという思いもある。

それでも、試みは反響を呼びつつある。岩手県の印刷会社が、同様の写真集の岩手版を発行したいと連絡してきた。写真の収集法から発行コストの工面策まで、培ったノウハウはすべて伝授し、岩手の思い出写真集の出版を全面支援する予定だ。

「家を失い、アルバムも流された家庭が少なくない。写真集がその心の隙間を少しでも埋めるのに役立てたら、嬉しいです」

広告のプロとして、まとめ上げた写真集。ページをめくるたびに涙する人がいても、それはきっと、それぞれが心に抱えた重荷を降ろし、明日を向く力になると信じている。



こんな応援を求めています!


今はふるさとを離れている宮城の出身者や、かつて宮城に住んだり勤めたりしたことのある全国の人に、手に取ってほしいです。写真集を買っていただくことが、結果として被災地支援にもなる。周囲の人にもぜひご紹介してください。
連絡先はみやぎの思い出写真集制作委員会事務局の南北社022(722)2661。

写真説明・完成した写真集を手にする矢吹さん
取材・執筆 河北新報ネット事業部 大泉大介

被災地で美容事業の展開。「お世話になった美容業界のために...。」

「ラポールヘア」代表取締役
早瀬渉さん(35)


早瀬さん

ラポールヘアP4,



「皆さま、一言目には『近くにこんな素敵な場所ができてうれしい』って言ってくださるんです。地元の方々が温かく受け入れてくださっているという手ごたえを感じます。初日から予想を上回る数のお客様がお越しになられています。ただ、スタッフの数がまだまだ足りていないなどこちらの不備で、せっかくお店に足を運んでいただいてもお待ちいただく時間が長くなってしまい、それが、とても申し訳ないかぎりです」

 東日本大震災で、甚大な被害を受けた宮城県石巻市。2メートル近い津波が押し寄せたという、石巻街道沿いの同市大街道西地区。民家や店舗など周囲の建物の多くは、震災から7か月近くたつ今なお、その爪痕を残している。その一角に、10月1日にオープンした「復興支援美容室ラポールヘア石巻店」の店内で、早瀬さんはうれしそうな、困ったような表情でここまでの歩みを話し始めた。

 株式会社「ラポールヘア」は、7月1日、早瀬さんが1人で立ち上げた会社だ。早瀬さんは今年の4月末まで3年間、パリに本部を置く「モッズ・ヘア」のアジア地域を統括する「モッズ・ヘア・ジャパン」で役員を務めていた。それ以前は、24歳の時に起業したヘア・メイクサロン事業を7年間ほどで全国展開にまで広げた事業家だった。東日本大震災後、東北では岩手、福島両県にある計5店舗のうち、特にいわき市内の2店舗の被災状況が激しく、モッズ・ヘア・ジャパンとしても可能な限りの復旧支援を行ってきた。「でも、一企業がやれる支援は限られているわけです。現地から悲痛な声が連日のように届き、東京でも(節電対策の)輪番停電で営業に大きな支障が出ました。そういう経験をして、価値観が大きく変わったんです」と話す。

 被災地、被災者を支援するのに義援金はあまり有効ではないと感じた早瀬さんは、「雇用の機会を提供し、自立の道をつくることこそが支援につながる」と考え、美容室を被災地に設け、美容師の資格のある被災者の人たちに、そこを職場として提供しようと事業企画した。

 その第1号が、「復興支援美容室ラポールヘア石巻店」。セット面14席、シャンプー台5席の広々とした店内で働くのは、21歳から35歳までの地元の女性美容師たち7人。勤務していた美容室が津波で流されたり、子どもを失ったうえに離婚を経験したり、震災で職を失った夫の代わりに家計を支えようという人ら、それぞれに事情を抱えている。彼女たちは美容室の従業員ではなく、「ラポールヘア」が美容事業を委託する個人事業主。完全歩合制で、各自の都合に合わせて出勤、仕事、退社するシステムになっている。
 店内には保育士が常駐しており、子どもの世話を心配することなく、その様子をうかがいながら働くことができる。「被災した美容師の方たちにとって働きやすい労働環境を考えました。美容業界では当たり前の朝のミーティングや残業は一切ありません。それでも、通常の業務をこなせば、一般的なサロンで従業員として勤務する以上の給料を稼ぐことができます」と早瀬さん。

 オープンしてまだ1週間ほどだが、週末は100人前後、平日でも50人ほどの来客がある。震災の影響で美容室そのものが少なくなってしまった状況でできたこの新しい美容室は、カットなどの料金を業界平均の半分にコストダウンすることで利用者にアピールしている。「女性のお客さんの様子を見ていると、その元気なことに驚きます。みなさん、パワフル。『きれいになりたい』という思いを強く感じます」と言う。

 「出だしは予想以上にいいです。この需要を維持しながら、それをスムーズに回せるようにするのが大きな課題です。将来的には、ここから、多くの地元の美容師さんたちが独立していってほしいと思っています。そうすれば、被災地の経済活性化につながるし、美容業界全体にとってもいいことですから」。早瀬さんは、名取市や多賀城市など、宮城県内のほかの被災地で第2号店、第3号店と店舗展開する考えを持っている。「僕がこれまで培ってきたマネジメント力などの経営のノウハウを駆使して前に進んでいきたい。被災地で、被災者の方々と、腰を据えてやっていくつもりです」


こんな応援を求めております。


 この店をオープンするにあたっては、本当に多くの皆さま方から支援をいただきました。店の環境はほぼ整いましたが、肝心のスタッフがいまだ不足しています。セット面と同じ14人はいてほしいので、あと6人。それに男性スタッフが1人もいませんので、募集します!また、店を失った美容室オーナーさんが、ラポール店内で、ご自身のお店の看板を出して営業することも可能です。投資なしで仕事ができます。協力いたしますので、ご相談ください。
 また、ここ石巻で活躍されている経営者の方々とのネットワークを築いていきたいと思います。横の連携を図りながら、地域の活性化を具体化していきたいと思っています。
 僕は被災者でもなく、地元出身でもないので、国や行政などからの補助が一切ありません。現状では、そういう事業資金調達の仕組みさえないのです。僕の考えに賛同、共鳴する方々がいらっしゃれば、資金協力をお願いしたいです。

(早瀬さん談)


 連絡先は、“絆”東日本大震災復興支援美容室 宮城県事務局
 メール:hayase625@gmail.com
 電 話:022-782-5377

取材・執筆者:河北新報社ネット事業部・相原研也

「伝統の笹かま守る」

笹かま製造「ささ圭」社長 佐々木圭亮さん(59)、靖子さん(58)夫妻


ささ圭 佐々木圭亮、靖子夫妻

店頭に立つ「ささ圭」社長の佐々木圭亮さん、靖子さん夫妻。
「営業を再開したら、みなさんに『ありがとう』とおっしゃっていただいた。
でも、お礼を言いたいのは、むしろ私たち。『本当にありがとうございます』」



宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の漁港近くにあった3つの工場を3月11日、東日本大震災による津波で失った。1966年に圭亮さんの父で会長の圭司さん(90)が創業した笹かまぼこ製造会社「ささ圭」。生産設備の全てと大切な従業員3人、そして自宅まで一度に失った傷心から、社長の圭亮さんは3月23日、残った従業員55人に解雇を告げた。

だが、再開への熱意が消え失せたわけではなかった。当時、安否不明だった従業員の手がかりを求めて訪ねた名取市役所で、「諦めるのはまだ早い」と諭された。石巻市で被災した同級生の経営者仲間に電話をすると、「俺は事業再開を目指すぞ」という力強い言葉を聞いた。少し冷静さを取り戻した圭亮さんは翌日、「解雇」の前言を撤回した。

決断は間違っていなかった。津波をかぶり、泥まみれになった笹かま作りの道具類をJR名取駅前の店舗前で洗っていると、道行く人から「いつ再開するの?」「楽しみにしているからね」と声を掛けられた。
さらに、震災後アクセスできずにいた会社のメールを開けてみると、「ご無事ですか?」「営業を再開したら注文します!」といった励ましが、山のように届いていた。
「うちのかまぼこを待っていてくれる人がいる」。そんな手ごたえが背中を押した。

7月1日、名取駅前の店舗に500万円かけて設けた小さな工房で、笹かま作りを再開した。すべて手作業となるのは、およそ半世紀ぶり。機械作業しか知らない従業員に、圭司さんと母のあつさん(84)夫妻が手本を示した。
業界で「擂潰(らいかい)」と呼ぶ魚のすり身を適量取り、笹型の型に乗せて叩く。成型が終わったら、次は焼き。真夏の暑さにガスコンロの熱風が加わる中、みな汗だくになって一本一本丁寧に焼き上げた。

震災前、ささ圭は1時間で6000枚、1日6万枚もの生産量を誇った。それが震災後は1日4000枚がやっと。それでも、「福興(ふっこう)手わざ笹蒲鉾(かまぼこ)」として店に並べると、伝統の味を待ちわびた客が次々買い求めていった。
とはいえ、万事順風というわけではない。残った従業員50人のうち、作業に携われるのは15人程度。他は休職扱いにせざるを得ない状態が続く。

現状の設備では、生産量を増やすにも限界がある。雇用を再開し、出荷も増やすためにはやはり新工場の建設が不可欠だが、億単位の投資となるだけにハードルは高い。

それでも圭亮さん、靖子さん夫妻は前を向く。

「お客さまからの励ましに、社員の頑張り、そして会長夫妻の支え・・・。そのどれかが欠けてもここまで来られなかった。大口のお客様から『待っているから』という温かい言葉もいただいている。11月にはお歳暮シーズンが始まる。一気には難しくても少しずつ、次のステップに進んでいきたい」と靖子さん。圭亮さんも「冬ぐらいまでには工場にめどをつけ、従業員を呼び寄せたい」と計画を練る。

この震災で単なる「水産加工食品」「お土産品」という存在を超え、「復興のシンボル」的な地位を得た笹かま。それを作る人たちの歩みも、一企業の再興という枠を超え、多くの人の期待を背負っている。

こんな応援を求めています!
何よりも商品を買っていただくことがありがたい。今出せるのは、福興手わざ笹蒲鉾と揚げかまの「福興遊里揚(ゆりあげ)」の2種。インターネット通販も再開した。事前に連絡をいただければ団体客の受け入れにも対応できるので、ご相談いただきたい。各地の各種イベントなどで、お売りいただくのもありがたい。全国各地から「地元の祭りに出店を」との声もいただくが、交通費を考えると難しい。販売を代行していただくのも支援となることを知ってほしい。
http://www.sasakei.co.jp/

取材・執筆者:河北新報社ネット事業部・大泉大介


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